第6章『西洋音楽に対処する原点はここに』
これまで日本人の文化、習慣、感性を比較分析し、われわれがする西洋音楽の判断の矛盾を指摘してきました。そしてその根源は言葉という障害であったことを結論しました。この分析の半分は日本人の典型である自分自身を分析してきたようなものですが、ともすると「日本人には西洋音楽はできないことになる。」という、これまでの論理展開を日本人批判と受け取る人がいるかもしれません。そこで本書を締めくくる本章では、そうした誤解を解くための試みを行いたいと思います。
音楽は誰でも演奏できますし、理解者を選ぶわけでもありません。音楽の現象や障害の原因は複雑怪奇にみえても、自然でシンプルな演奏方法が必ずあるはずです。また分析できれば解決の糸口もみえるはずです。そんな信念を抱きながら、良薬を求めて長い間放浪の旅を続けてきましたが、その信念通り、原因が掴める度に解決法も次第に集約され、全楽器と全障害に対応できる、自分でも信じ難いほど単純で効果的な解決方法がいくつも出てきました。
もちろんそれらはこれまで十分述べてきたつもりですが、本書は表面的な演奏法を語ることが目的ではなかったため、具体性に乏しいと感じられた方もいるでしょう。
この章では音楽の構造を明らかにするとともに、そうした方のためにほとんどの奏者に抜群の効果があり、さらに副作用の少ない、典型的な特効薬を紹介してみることにします。
1節=〈演奏に階層構造があった!〉
電球の中にある発光体のフィラメントは螺旋(ラセン)になっていますが、二重の螺旋構造にしたことで飛躍的な進歩をとげられた、という話しを聞いたことがあります。またDNAも螺旋を描いていますが、螺旋の中には数十億の遺伝に関する情報が入っています。最近、癌も遺伝子の変異だということが明らかになり、遺伝子レヴェルの治療も試みられ始めています。
私がいう音楽の構造とは丁度このような螺旋で、しかも四重構造を構築しています。しかし四重の螺旋とはいうものの、言っている私自身が想像困難なように、読者の中で四重の螺旋を想像できる人は少ないでしょう。その第一次の螺旋は『発音』と『発音体』という二つの媒体から成り、糸状の螺旋を形作っています。その第一次の糸が第二次構造を作りというように、螺旋の四次構造とは螺旋が螺旋を作る構造が四回繰り返されていることになります。それはゴム動力飛行機のゴムを巻き過ぎて、ゴムが四重に重なったと考えればよいでしょう。そして四重の螺旋を構成している糸をほぐすと、発音と発音体がからまった一本の螺旋にもどります。つまり、どの階層も「発音」と「発音体」の糸からできていて、各階層の螺旋は常に隣接していることになります。
私たちは音楽を聴いて「綺麗な音」「心が休まる」、また「音楽的だ」「ビートがある」等、さまざまな言葉で音楽をいい表していますが、音楽を本書のように分析的に聴くことは稀でしょう。一般的には、音楽は知識や経験から生まれる理解力の総合評価、つまり印象の良し悪しで判断しています。その印象とは音が鳴る瞬時の認識ではなく、ある一定時間経った後の認識です。つまり音楽鑑賞は発音と発音体が複雑にからまった四重の螺旋が時間方向に流れる構造を聴いていることになります。(厳密には各層同時進行)
本書で多くのページを割いてきた事柄は‘発音やリズム’のことで、それは低次構造の事でしたが、主たる目的以外にも多く語ってきたのはなぜかということをここで説明しなくてはなりません。
これまで音楽の構造というと形式や和声進行をさしていました。しかし演奏(プレー)はそれと全く異なり、複雑ではあるが自然と同じ階層構造を持っているということがいえるのです。
螺旋の写真➡
自然の階層は離れるほど影響が薄くなりますが、音楽(演奏、鑑賞)の特殊性は、螺旋の構造でも判るように近隣の構造を経由せず、何処からでも直接影響し合っているというところにあります。つまり文化や習慣、性格、言葉(第四次構造)などは発音やリズム処理(第一、二次構造)に直接大きな影響を与え、そして反対に発音やリズムの処理(第一、二次構造)が、音楽性や芸術性(第四次構造)、民族性を生み出しているという事なのです。
そしてこれまで触れられなかった数点をここで述べてみたいと思います。
まず第一点、本論ではリズム処理を主眼に分析してきました。そして日本人が母音に意識を注ぐため、子音とリズム核の不明な処理が頻発し、障害を及ぼしているという現象を語ってきたわけです。
われわれ日本人が音楽を聞いて音楽らしさを感じているところ、そして演奏するときの母音処理は、発音のタイミングや方法が違っていたため本書でいうところの母音、すなわち‘リズム核や点後’とも大きくずれていたわけです。正確なリズム核を取れなければ点後の処理は語れません。音楽の基本構造はこの点に集約される、との信念で語ってきましたので、点後はどうであるべきかは一切語りませんでした。
細かい音符を速いテンポで演奏した場合、音が目まぐるしく変わるため、本人も聴く側も‘移行点’(下図)の認識は疎かになり感性をいう暇もありません。ここに音を‘ごまかせる’という落し穴がありますが、反対にいえば一つ一つの音を認識せずとも、方法論さえ正しく守れば、正確な処理も可能だという利点も出てくることになります。
一方、長い音符(点後・いわゆる母音)に対しては、われわれの日本人の聴覚が最も敏感に働くところでもあります。したがって演奏者は複雑な心理に陥り、生理的にも技術的にもコントロールという面から‘ごまかし’がきかなくなってしまいます。そのため発音のタイミングなど、リズム処理に意識を奪われることなく、音楽性や即興性を十分発揮できる解放された基本的技術を身に付ける必要があります。ここに技術論を語る大きな理由があったのです。
(11図)
しかしこの基本構造を修得した後には、発音から点後の処理へと結びつけ、より完成度の高い音楽にしなければなりません。すなわち点前からリズム核へ、そして点後(リズム点から音符の持つ時間的長さ)へとつなげる努力が必要になってきます。
そしてさらに点後の処理から次の音の点前へ移行させる部分‘移行点’前後が、音楽的感性を表現する大切な部分であり、鑑賞者の心を揺さぶるところでもあります。
そして述べてきたように技術的にも問題が多く発生するところでもあり、音楽性を表現するための技術と同時に、いわゆる‘音楽的な音楽’を演奏するための『音楽的な理解力』(音楽的認識)もしっかり身に付ける必要があります。そしてその意識は演奏者自らが切り開かなくてはなりません。しかし一般的に‘音楽的’といっているわれわれの音楽評価は点後処理(母音)をいっている事が多く、〈→3章4節=判断基準のまとめ〉そのため点後をいかに扱うかという演奏者の‘音楽的認識’は私たちに備わった感性でもあり、音楽の深い理解とともに開けてくると確信します。但しこれも本文で十分述べてきたつもりですが、発音、リズム処理を解決することは容易な事ではないということも、今一度述べておきます。
第二点、それは第一次構造の発音と発音体の関係です。発音は各章で述べてきた通りですが、「発音体」とは唇やリード、また弦や皮、それぞれ楽器の振動体の事です。弦楽器の弓に相当する部分を管楽器に置き換えていうと、楽器の支えに対する唇と息の圧力の関係といえるでしょう。
管楽器の振動体の特徴をみると、金管楽器では唇が振動体であり、リード楽器では芦を薄く削った経時変化の激しい振動体で演奏をコントロールしなければなりません。両者ともよりよい振動体を得る努力と、その振動体で演奏をコントロールするための基準を掴むことに長い間悩まされ続けることになります。同時に息の太さなど、それを送り出す腹筋機能の兼ね合いが振動体に大きく影響するなど、客観的になり難い要素が多く、実技の現場では最も論点となるところでもあります。それは「呼吸法」「アンブッシャー」という特別な言葉でいい表される如く、そこに楽器上達のための重要な問題が秘められています。
しかし呼吸法やアンブッシャーが問題の全てを握っているわけではありません。それは鶯も雀に育てられれば、汚い鳴き声になってしまう如くに、いくら口格好や方法を説いてみても根本的解決にはならないものなのです。それは同じく英語の発音の口腔図を元に口格好を作って発音してみても、英語のリズムやスピード、強弱の関係などを理解しなければ日本語の発音から抜け出すことができません。それと全く同じことなのです。口腔図や発音記号は一つの参考資料に過ぎません。まして‘聴こえない’という現象もあるのです。つまりアンブッシャーを勉強しても、結果的には本人が(日本人の)持っている音楽に対するイメージやセンスが下地になり、本人の最も都合よい表現手段に陥ってしまうのです。
すなわちアンブッシャーは音楽を作る一つの元になっていますが、アンブッシャーが完成すれば適切な西洋音楽になるわけではありません。
同じように‘呼吸法’も騒がれる大きな一つで、吸うことの訓練ばかりが行われています。しかし事実は一般論とは全く反対で、重要なことは、吸えれば吐けるのではなくて吐ければ吸えるのです。同じく‘綺麗な音’とか‘音楽性’をさとしても、ひ弱な体や消極的な演奏法からはよい音楽はでてきません。積極的な姿勢と健康な体が音楽をするのです。一般的に語られている演奏におけるほとんどの訓練方法は、その一部は語っているものの十分な条件を満たしているとはいえません。
疑問の多くは管楽器を中心に述べていますが、楽器の種類の違いから発生する技術的差異は奏法上の根本的問題ではなく、別種の問題だと考えられます。それは演奏という行為は楽器が音を発生しているのではなく、人間が行っているからです。そして同時に鑑賞者も同じ心理と機能を持った人間であるためです。
音程に始まり、音色、スタッカート、音のミス、あるいは合奏に関する諸問題、そして冒頭で挙げたような演奏に関するほとんどの問題は上記のような関係、すなわち『包含関係』にあったのです。つまり起こった現象をそのまま対処したり、論議してみても根本的な問題解消につながらないのは、その関係が不明だったからなのです。それらは合理的な勉強法の反対から実践しているようなもので、経験を積むほど解決が難しくなります。そのため本論冒頭で、本論の解決方法は一般論とは反対の事が多い、と断ったわけですが、根本的な問題解決のためには、その包含関係を見極めて勉強していくことが最も肝要なことであるということを、本論最大の特効薬として提示しておきたいと思います。
そして音楽は旋律などの時間的流れに常に耳を奪われ、処理に追われる結果、露出しているはずの下部構造と包含関係を見過ごすことになってしまいます。そのため、演奏法はますます不可解さを深めていくことになります。演奏は四重の螺旋構造を持つ、下部構造を包含した階層構造なのです。
ここで述べてきた問題点を整理し、関係を明らかにさせるために今一度、音楽における階層構造を表記します。
{構造表}➡
*上記表の点線のずれははっきりした境界を示せない。
2節=〈楽器の上達は「歩くこと」と関係が〉
a.言葉の習慣で歩く
〈リズム〉〈踊り〉の項で詳しく述べてきたように、踊りと音楽、すなわち体と楽器の発音は原則的に一致するはずです。
楽器の発音の原点である言葉は、楽器の発音よりも遥かに自由に発音できます。ですから当然、声は体のリズムに一層合いやすいわけです。例えば、走る時など「ヨーイ」のアウフタクトに対して、「ドン」に強拍のリズムを感じて体を合わせて(打合させて)いますが、「セーノ」や「サン、シ」「ソーレ」など、掛け声と体を打合させる現象は、普段の生活の中においてたくさん見い出すことができます。それと同じように声を張り上げて歌いながら歩いた時、どうにも歌と歩行が合わせられない(打合しない)ということはないでしょう。
では序章の〈行進できないクラリネット→序章C-b〉で述べたように、楽器を演奏しながら歩くことがなぜ困難になるのでしょうか。
----------------脚注60----------------
体操などの見栄えを〜
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初回の訓練時でのクラリネットは90%近くの人が、金管を含めた他の楽器は20~30%くらいが、そして発音が自由なはずの弦楽器でも半数くらいの人は歩けないと述べました。
〈追旨1〉に呼吸に関する概要を書きましたが、われわれは息を吸って吐いてという、動物のごく基本的な生理機能の裏表の関係の中に心理が成り立ち生きています。
運動、スポーツでは呼吸で間合いを計っているように、呼吸は吐くことの反動で吸っています。それは言葉を喋る感情によってさまざまな息遣いをしているように、息の流れ方やリズムの乗り方によってブレスは違ってくるのです。
西洋音楽を表現するということは、言葉や歌のように、運動機能と音楽のリズムを一致させることでもあります。すなわち『体と音』は、準備、強さ、スピード等が、全て同じ感覚で打合点に向かわなければなりません。しかし4章3節で述べたように、われわれは曲のスピード感やリズムなど直感的(潜在的)にはその曲想はとらえていますが、西洋音楽を日本語(日本音楽)の発音習慣といい回しで再現します。いい替えれば『日本語で演奏』しています。
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*妙薬51=ベートーヴェンを口ずさんでも日本語で
われわれは感覚的には〜
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日本語は語頭の発音に息の溜、スピードが西洋(英語、ドイツ語)の言葉に比べて弱く、その習慣で演奏するために発音が遅れます。その上、語尾をいい切る習慣もない(いい切れない)ため、さらにブレスのタイミングからブレスの勢い(初速)までずれ、そのためリズムに追い付くことなく延々とリズムに乗り遅れを繰り返すことになります。すなわち「ヨーイ」とともに気持ちだけが出発に向かおうとするが、腹の準備がなく常に「ドン」から出だすことになります。(体のタイミングがずれると胸式呼吸になりがちです。)〈→追旨1-2=体のタイミングと呼吸の~〉
さらに日本語は一語一音符のリズムの習慣ですので、細かい音符、2,3,4,5連符などを一拍の中にはめる言語習慣がなく、それらに全く未経験であることが考えられるのです。
そのため発音に自由がきかない者、発音に問題を抱えてしまった者、日本的感覚で楽器に対応しようとしてしまった者、息を吐くことに問題を抱えてしまった者などが、特に歩くことに不自由を感じることになります。(もちろん、西洋人とて発音に問題を抱えてしまった者は例外ではないでしょう。)
クラリネットは閉管の振動の特徴と一枚リードの特徴から、素直に息を出せない者が特に多く、最初の時点から問題をかかえて育ってきている者がたいへん多いことになります。そのため足を出しても、発音が不自由なため、歩行に音が付いてこないのです。あるいは歩行のリズムと曲のリズムがずれてしまうため、足を合わせる打点を失って潜在的なパニックに陥っているという現象なのです。
私たち日本人が“西洋楽器”を持って“西洋音楽の楽譜”を見て演奏した時に、西洋音楽を演奏しているつもりでも、無意識に日本語で考え、日本の習慣で演奏しています。しかも個人の美意識から性格まで音として表現されてしまっています。
日本語(またはわれわれの慣れ親しんだ日本音楽)の習慣で西洋音楽を演奏すると全てリズムに乗り遅れ、タイミングがずれてしまうのです。
b.才能と息の関係
楽器によって上達の度合いが著しく違うということと、天才の出やすい楽器がある、ということを手掛かりにして、音楽的才能について考えてみましょう。
天才と呼ばれる名手が出やすい楽器は世界に共通して、息と発音との関係が少ない楽器(発音体の障害を受けにくい)、鍵盤楽器や弦楽器(息が自由になる楽器)に集中しています。(天才という言葉はもちろんコマーシャリズムや作品の数にも関係しているでしょう。)
序章で述べたように私の専門である管楽器では、歩くことに障害の少ないと述べた楽器郡のアマチュアの団体をみると、誰に教わるともなく高度な技術を身につけている者を少なからず観察することができます。その者たちに共通することは打合点が取れていること、すなわち発音のタイミングがよい、その原点は息の入れ方が自然であるという点です。
‘楽器の上達は息とリズムに関係している’ということがわかります。いい替えれば『音楽のリズムに体が一致しやすい楽器、もしくは一致している者が、そして息を吐くことに障害を生まなかった者が素直に上達の道を歩める』ことになります。すなわち打合できる条件が必要なのです。したがってそれは第一次構造の負担が少ない楽器を示しています。そして序章で述べたように管弦打楽器に比べ、ピアノがなぜテクニック的に解放されているかの一つの大きな理由は、この第一次構造にかかる負担が極めて少ないためなのです。
----------------脚注61----------------
打楽器、低音楽器には〜
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*妙薬52=上達の条件と秘訣
管楽器では息が自由になる楽器〜
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c.音楽を言語習慣に近づける
日本語の習慣は日本音楽に、そして西洋の言語習慣はそれぞれの西洋音楽に都合よくできています。そして私たちが演奏する曲の殆どは“外国語の習慣で書かれた”リズミカルな曲です。さらに音楽は作曲家の内面的言語活動(母国言語上においての閃き)を以って書かれていることが推論できます。楽器はその習慣をよりよく表現するために開発された西洋楽器です。そして演奏は本人の言語習慣を以って表現されます。日本人個人個人はさておいても日本全体を一まとめにいうなら、基本的に日本語の発音や表現の習慣、認知を‘西洋音楽の語法’に近づければ上手くいく、と思うわけです。
その西洋の音楽の語法に近づくには、西洋言語のリズムを(構造を)壊したくても壊せない方法、母音を出せない方法をとることができれば上達が約束されるわけです。
これまで私はいろいろな方法を考え、実行して効果を上げています。そのいくつかの方法は本文で、そして特に4章3節では演奏法の核心を述べましたが、少ない説明で演奏法を掲載することは誤解を招き危険です。しかし私が直接指導せずに、音も聞かず、演奏状況もみずに誰でも効果を上げられる方法が今一つあります。それは馬鹿馬鹿しいほど単純で効果的な方法です。それが『歩きながら練習する』ということ、これこそ『特効薬中の特効薬、濃縮特効薬』だったのです。すなわち今すぐに『歩けなくても』、毎日の練習の中で歩く努力をすることによって、いつの日にか歩く不自由から解放されること請け合いです。それは疲れてくれば音を出すことより『歩く方が優先』されてくるからです。すなわち歩ける事によって『音と息と体はいつの日か同じリズム関係を結べる』ことになってくるのです。
「読んでも演奏法が判らない云々」といわれる前に、歩きながら演奏し‘音楽のリズムに乗る’方法を研究してみて頂きたいと思います。必ず不自由から自由への変化の兆候が現れるはずです。そのとき再びこれまでのさまざまな問題点を思い起こしていただきたいと思います。
----------------脚注62----------------
リード楽器の息の抜けはリードの〜
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*妙薬53=上達はアップビートから
体と音を一致させる。積極的に表現させる〜
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*妙薬54=音楽は腰で表現
拍の半分のリズムを刻ませると、つまり
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*妙薬55=特効薬
音楽性、音の趣味趣向を求める前に〜
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素直な息が出せるようになると〜
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しかし残念なことに〜
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d.踊りのずれがなぜ生まれたか
なぜ踊りやスポーツなどに国際的な差が出るかということは、もうお判り頂けたと思いますが、演奏者と踊り手がそれぞれ違った母国語の習慣を以って演奏し、聴きながら踊るからです。すなわち踊り手(演奏者)、選手が日本人なら日本語で聴き、考え、日本語の認知で行動するからです。〈→2章5節=〈踊り〉に出る言葉のタイミング〉〈→4章序節a=呼吸と息がおよぼす生理と心理〉
それは日本舞踊をそれぞれの民族に踊らせ、踊る動きの違いを検証すると考えれば理解できるでしょう。それぞれの民族の言葉の認知の違いが行動に出るのです。
3節=〈日本人の資質を知る〉
〈西洋音楽は〉合奏は
西洋音楽はその歴史の中でゴシック建築のような形式美を完成させてきました。
バッハの音楽は数学であるとまでいわれます。ベートーヴェンはソナタ形式を完成させました。西洋音楽は構造の上に成り立ち、その上に音楽の感性を乗せたものだ、といって差し支えないと思います。私たちは西洋音楽をさまざまな立場で評価し、演奏し、聴いていますが、それは構造の上に成り立った形式美を演奏表現し、鑑賞しているということになるでしょう。
西洋音階は日本音階の微妙なものと違い、整然とした自然音律です。自然音律と機能性を追求して現在のピアノ、平均律ができました。それは構造と機能を追求するために科学、数学を用い、人間の機能と感性の妥協点から生み出されたものです。そしてその音階の上に形成された和声と和声進行は、人間の聴覚心理を元に生み出された構造と形式美の他の何物でもありません。
大勢で演奏する合奏では時間の観念(周期性)と構造が必要です。それは既に述べたように、日本音楽には時間の観念がとぼしかったほか、和声進行などを生み出すための構造的感覚と習慣に欠けていたため、日本では合奏形態が進歩しなかった(一般的にならなかった)と考えます。そして先にも述べた鍵盤楽器〈4章終節〉は構造的な楽器であるため、われわれの感性に合致せず、発達しなかったのだと思われます。
われわれが知っている西洋音楽は、全てこの形式の上にのせられ、計算された音楽であることを知るべきです。その音楽の中には日本的感性の入る余地は全くない、といい切りたい気持ちがします。
日本的美意識で西洋音楽を聴くことはとても新鮮なものですが『西洋音楽の勉強』と『西洋音楽の判断基準』そして『演奏の評価の基準』など、西洋楽器によりよく対処させ、導くためには、日本的感性の上に培われているわれわれの西洋音楽のセンスと聴覚にまず疑問を持ち、それらの基準を再確認する必要があると私は考えます。
われわれが一口でクラシックと呼んでいる西洋音楽の中身を覗いて日本と対比してみると、その美的感覚はこうまで違うのです。
音楽は母国語(個人の言語習慣、含む性格、内面的言語活動)で音楽処理をし、母国文化上に培った感性で感情処理をしています。
私たち日本人の聴覚は、母音の微妙な変化を聞き分けるたいへん高度な感覚と感性を備えていると思うのですが、その感覚がむしろ西洋音楽に対処する際の弊害になっているのです。
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*本論では音楽を〜
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〈本論最後に〉
本書は上達ということを一つの目標にして、才能についても語ってきました。そのため本書で述べた論理を理解すれば音楽の能力全てが手に入る、という誤解が生じないとも限りません。そこで本論最後にお断りしなければなりません。それは、本書は天才を生み出す方法を論じてきたのではありません。日本的音楽性、芸術性に心を奪われず、本書で述べる広い視点から音楽を冷静に眺め、修練を重ねることによって能力を問わず、技術的に誰でも解放されたレヴェルに到達でき得る可能性があるという方法論を提示してきたのです。しかし本書には唯一の落し穴があります。それは「誰でも」と「可能性」といったように、その可能性は決して低くはありませんが何処までの可能性かは依然として残されます。すなわち私のもう一つの心では「音楽的創造が無ければ技術もあり得ない」、つまり音楽的高度な目的意識がなければ目的に向かうことはできない、ということをも自身では語り、心の中では葛藤しているのです。しかしなぜ私が音楽性を否定してまで音楽を語ってきたか、それは『技術論と精神性は次元の違う問題』だからです。
本章最後にその問題に答えなければなりません。真に音楽と呼ぶことのできる、言葉でいい表わすことができないほど感激する音楽芸術は確かに存在しています。しかしそれは私のこの理論を踏襲したところにあると確信します。そして読者の“音楽的才能”は本書を越えるところに存在しなければならないのです。本書の論理は万能ではありません。本書はこれまで誰も手をつけなかった音楽の内面の問題、すなわち音楽の現象論を語り、欠けていた演奏法の基本的概念を語ってきたのです。
私にはかねてから一つの些細な夢があります。それは「君ね、もう少し音楽を理解してよ。」「綺麗な音が聴きたいな。」「音楽はねー。」いつの日か生徒に向かっていってみたいと思っています。
これまで西洋音楽を述べるために、日本人論ともいうべき事を書いてきました。私たちは西洋文明に憧れを抱いていますが、この研究によって、それぞれの民族が培ってきた文化一つ一つが貴重な地球の財産だと思うようになりました。それは夜空一杯に降るような星の中のたった一点の光りも、宇宙の中ではそれぞれバランスを取り合っているように…。
そしてまた、小さな地球の中のそれぞれの民族が築き上げた貴い文化を考えたとき、西洋音楽を研究している小さな自分と、自分の音楽生活の小ささを改めて考えさせられてしまいます。
----------------脚注60----------------
体操などの見栄えを競う競技などスポーツの放送に専門家の解説が入りますが、その解説は感性をいうことがたいへん多い。リズムにまつわるそれら問題は音楽だけではなく、他の分野においてあまり理解されていないように思われます。
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*妙薬51=ベートーヴェンを口ずさんでも日本語で
われわれは感覚的には曲の雰囲気はとらえていても、意識的には日本語で西洋音楽をとらえているのです。たとえベートーヴェンを口ずさもうが、マーチを口ずさもうが「タタタ、ラララ」あるいは「MMM、RuRuRu」、文字は何語であっても口づさむのは日本語の発音なのです。〈→追旨2-5=TuとDu〉
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----------------脚注61----------------
打楽器、低音楽器には、楽器の役割や呼吸、音程、音色など一般の人が思う以上に複雑な要素があるが、演奏法に近くなるので割愛。
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*妙薬52=上達の条件と秘訣
管楽器では息が自由になる楽器、音楽性や音色について多くの注意を受けなかった者、発音に対して潜在的に恐怖を持たなかった者、これらの人は息と音の関係の障害が割合に少なく、自分の音楽に対する意識とセンスが向上するに従って、西洋楽器と音楽に適合した演奏が身につきやすい。
反対に障害の多い楽器は、第一次構造の負担が多い楽器、もしくは勉強途上において負担を背負ってしまった者です。解決の手立ては、その負担となるものを発見し、解決のための方策を練り、その練習に励むことです。
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----------------脚注62----------------
リード楽器の息の抜けはリードの質によるところが大きい、よい音を目指すより、むしろ息の抜けを心がけて常にリードに神経を配ることです。〈追旨1-3=息が足りないという現象〉
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*妙薬53=上達はアップビートから
体と音を一致させる。積極的に表現させる。瞬発力を養う。厳格なリズムを取る。これら実践することで少なからぬ上達が期待できます。さらに踊りの項で「アップビート云々」と述べたように、裏拍“ト”を常に意識して(強拍のリズムは極めてとり難い。)弱拍で体を上に跳ね上げて取らせるなど、可能な限り小さなリズムをきざませ、腰を敏感に反応させること、あるいは4章3節で述べたように英語の発音システムを理解し英語で演奏することです。
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*妙薬54=音楽は腰で表現
拍の半分のリズムを刻ませると、つまり4拍子に8回のリズムを取らせると、時として倍テンポの日本的リズム(舟漕ぎ、や逆さリズム)になってしまうことがあります。体を跳上げる際には裏拍の「ト」が動き出しであることを厳格に守り、まず楽器を持たず、腰でリズムを感じとる訓練から行うことを薦めます。音と足と腰が同じ関係を結べることがポイントです。(誤解を生むと困るので、デキシーランドジャズの動きや、ジャズダンスなどを参考にするとよいと思います。)
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*妙薬55=特効薬
音楽性、音の趣味趣向を求める前に発音の準備をさせ、息の溜を作り、子音を太く発音させ、リズムを逃さず常にリズムを予測させ、「前乗り」にリズムを刻ませることです。
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素直な息が出せるようになると、体は自然に正常なリズムを刻み出します。上達しやすい楽器は息のよく吐ける楽器と直接息にかかわりのない楽器郡だと述べました。われわれは音を気にしますが、音と体の関係よりも体は息を認知しています。そのため息と体が一致したときから、テクニック的にも解放されて、全てにおいて順調な人が出てくるわけです。これこそが最大の上達の妙薬となるのです。〈→妙薬56.60参照〉
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しかし残念なことに、この方法から出た音、音楽は、日本人の聴覚が最も嫌う音と表現になってしまう場合が多いのです。
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*本論では音楽をさまざまな角度から分析してきましたが、科学の立場から日本と西洋の根底にある思想を分析した「科学者とキリスト教」渡辺正雄著、講談社、にたいへん影響を受けました。合わせて参考にして頂きたいと思います。
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